○少年少女のためのスッタニパータ<923>
・・・
修行者は勇者のようだ。
どんな苦痛にも耐えしのび
どんなものにも怯えずに、
死さえも恐れない。
第4 八つの詩句の章 14.迅速経 9.
○毎田周一先生訳
923.
刺すような苦痛に会っても
修行者は決して泣き悲しまず
どうしても生きたいなど命を貪らず
恐ろしいものに出会っても震えぬがよい
○中村元先生訳
923
苦痛を感じるときがあっても、
修行者は決して悲嘆してはならない。
生存を貪り求めてはならない。
恐ろしいものに出会っても、慄(フル)えてはならない。
○正田大観先生訳
930.(923)
すなわち、〔病いに〕罹り〔飢えに〕襲われた者として存するとき、
比丘は、どこにおいても、嘆き悲しみ〔の思い〕を為さないように。
しかして、〔迷いの〕生存を渇望しないように。
さらには、諸々の恐ろしいことに動揺しないように。(9)
○パーリ語原文
929. (923)
パッセーナ ヤダー プッタッサ
‘‘Phassena yadā phuṭṭhassa,
触によって ~の時に 触れられた
パリデーワン ビック ナ カレッヤ クヒンチ
paridevaṃ bhikkhu na kareyya kuhiñci;
悲しみを 比丘は ない 為さ(ない)ように 決して
バヴァンチャ ナービジャッペッヤ
Bhavañca nābhijappeyya,
生存を・また 望まないように
ベーラウェース チャ ナ サンパウェーデッヤ
bheravesu ca na sampavedheyya.
恐ろしいことに対して また ない 震え(ない)ように
○一口メモ
今回の偈の一行目の直訳は、「触れて感じた時に」ですが、二行目は「修行者は決して悲嘆してはならない」ですから、苦しくなるものに触れた時のようです。ですから、正田先生は病気や飢えを補って訳されています。そこで、何故このような苦痛に会った時も、修行者は嘆き悲しんではいけないのでしょうか?
苦痛に対して嘆かないことは、完全な感官の防護です。感覚に対する刺激から心が汚れないように守るためです。凡夫であるならばこのような苦痛に対して嘆くことは普通のことでしょうが、修行者たるものは、心を守ることは重要な修行ですから、たとえ大きな苦痛であっても耐え忍ぶべきです。
三行目、「どうしても生きたいなど命を貪らず」=「生存を貪り求めてはならない」=「〔迷いの〕生存を渇望しないように」について説明します。大きな苦痛に対して嘆き悲しむのは、生命の危機を感じるからです。生命の危機に対しても動じない修行者は、痛い時は痛いでしょうが、嘆き悲しむことがないのです。何故ならば彼にとっては自分の生命より大切なものがあるからです。それは真理の探究です。彼は真理の探究にとって嘆くことが相応しくないのであれば嘆かないのです。
三行目「恐ろしいものに出会っても震えぬがよい」も上で説明したように、恐ろしいものに出会って震えるのは命が惜しいからです。」真理のためならば、命も惜しくない修行者は、恐ろしいものに出会っても震えないのです。」彼には「悪事を働くこと」以外に恐ろしいものはないのです。
修行者は 苦痛に会っても 嘆かない 命惜しまず 震えもしない<923>
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~~お知らせ~~~~~~
◎緊急連絡:6月26日(金)18:30~21:00 東京・なかのZERO小ホールにて、「スマナサーラ長老 初期仏教月例講演会が開催されるために、ゴータミー精舎によける夜の自主瞑想会は中止します。
◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
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2015年06月23日
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後悔したりと、第二第三の矢で刺されれば、苦しみの中に住み続けるハメになるのでしょう。
先生の三つの教えに強くうたれました。
①「苦痛に対して嘆かないことは、完全な感官の防護です」。六根の防護をより具体的に理解することができました。ありがとうございます。
②「生命の危機に対しても動じない修行者は、痛い時は痛いでしょうが、嘆き悲しむことがないのです。何故ならば彼にとっては自分の生命より大切なものがあるからです。それは真理の探究です。彼は真理の探究にとって嘆くことが相応しくないのであれば嘆かないのです。」。感銘を受けました。何度も繰り返し胸に刻みます。
③「彼には『悪事を働くこと』以外に恐ろしいものはないのです。」。今の自分の姿と照らし合わせると、言葉をなくします。
本日も、宝もののような教えを説いて頂きました。心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
「修行者は恐ろしいものに出会っても震えてはいけません」という言葉が印象に残りました。
そのような心持になるには、気概と命をも捨ててもよいという並外れた覚悟が必要なのでしょう。
感覚→思考→妄想と繋がり・回転させず、今ここをありのままに観察し、この修行者のように成れる様に精進したいです。
てくてくでございます。
今日の偈をこのように思いました。
悲しみを為すは、自ら動くと思います。生存を望むことも恐ろしいことに震えるも自ら動くと思います。修行者は920偈のように『不動のものとして静止して』を実践して行く者と思います。その修行者が自ら動くは恥と思います。また、そのように自ら動くが他の人をも動かしてしまったら、人を軽んじてしまうとおそれて自ずと止むと思います。修行者は人を重んじ、自ら恥じて、自ずと静まると思いました。