○少年少女のためのスッタニパータ<917>
・・・
自分のことをよく知り、
世界のこともよく知るべきだ。
しかし、
それだけで幸せになるわけではない。
第4 八つの詩句の章 14.迅速経 3.
○毎田周一先生訳
917.
内界のことや外界のことについての
如何なる道理も それを知っているのはよいが
しかしそれを過信してはならない
何故ならそれが苦痛を鎮めるなどと 目醒めた人はいわないからである
○中村元先生訳
917
内的にでも外的にでも、
いかなることがらをも知りぬけ。
しかしそれによって慢心を起こしてはならない。
それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。
○正田大観先生訳
924.(917)
内に、しかして、あるいは、また、外に、
それが何であれ、法(事象)を〔あるがままに〕証知するように。
〔ただし〕それによって、〔心の〕強靱(固着・強制)を為さないように。
なぜなら、正しくある者たちの説く、〔まさに〕その、寂滅〔の境処〕(涅槃)ではないからです。(3)
○パーリ語原文
923.
ヤン キンチ ダンママビジャンニャー
‘‘Yaṃ kiñci dhammamabhijaññā,
それが 何であれ 法を悟るがよい
アッジャッタン アタワーピ バヒッダー
ajjhattaṃ athavāpi bahiddhā;
内の 或はまた 外の
ナ テーナ ターマン クッベータ
Na tena thāmaṃ kubbetha,
ならない それによって 慢心を 為しては
ナ ヒ サー ニッブティ サタン ウッター
na hi sā nibbuti sataṃ vuttā.
ない 何故なら かの 寂静で 善き人々の 説く
○一口メモ
この偈の内界と外界或は内的と外的とは何を指しているのでしょうか?この二つで「如何なることも」ということですから、「すべて」を意味しているのです。ブッダは「すべて」という経で、「すべてとは、眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法である。」と述べておられます。すなわち内界とは眼耳鼻舌身意であり、外界とは色声香味触法です。これがすべてです。この偈の一行目、二行目では、すべてを知り尽くせと述べているのです。
このすべてを知り尽くすことによって、真理の三相と言われる無常、苦、無我を知ることが出来ます。しかし、三行目では、それによって慢心してはいけないと述べられています。それは覚った人が説く涅槃の境地ではないからです。
内界も 外界もよく 知り尽くせ 知り尽くしても 慢心するなかれ<917>
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~~お知らせ~~~~~~
◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
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2015年06月17日
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無常、苦、無我を知るだけではダメなのである。
それを知ることを縁にして「内と外を厭う気持ち」が必要なのでしょうか。
「内処:眼耳鼻舌身意」と「外処:色声香味触法」はアビダンマでも頻繁に説かれています。でもそれが「このすべてを知り尽くすことによって、真理の三相と言われる無常、苦、無我を知ることが出来ます」と繋がることは、今回ワンギーサ先生に教えて頂く前には、はっきりと意識して気付くことができませんでした。はっと致しました。そういった視点で、アビダンマも再度勉強しなおしてみます。御指導ありがとうございました。
ワンギーサ先生の解説に『「すべてとは、眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法である。」と述べておられます。すなわち内界とは眼耳鼻舌身意であり、外界とは色声香味触法です』 とあります。
内界とはすなわち自分自身のことをよく知るということだと思います。外界は言葉通り「色声香味触法」ととらえたらその範囲は広がります。範囲の広さは修行者が選択できるのだと思います。但し、戒律を守れる範囲に限定されるのではないでしょうか。今朝もありがとうございます。1日頑張って日課を果たそうと精進してみます。
本文の「内界とは眼耳鼻舌身意・・外界とは色声香味触法・・これがすべて・・すべてを知り尽くせと述べている・・無常、苦、無我を知ることが出来・・それによって慢心してはいけない」深く感じます。
慢があると(何かと)比べてしまう・・と教えて頂いたように思います。慢心とはそのような比較する心という事になるでしょうか。それが無くなると涅槃の境地が分かるかなと想像致しました。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
「この世で為すべきことを為し終えて」ついに覚る(=解脱する)と説かれる。
ただし、行為によって覚るわけではない。また、覚ったならば〈その真実〉を知ることになる。〈その真実〉を知った人は、覚ったのである。〈その真実〉を知った人は、一切と争うことがない。微妙な言い回しだが、覚りの真相はこの通りである。
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