○少年少女のためのスッタニパータ<916>
・・・
私たちはどんなものでも
見たり、聞いたりすると
それに対する想いが現れます。
その想いが欲や怒りを作ります。
第4 八つの詩句の章 14.迅速経 2.
○毎田周一先生訳
916.
「『自分を聖者のように』考える一切の妄想の
と世尊はいわれる
その根本を断ち切って
内にあるどんな情欲をも取除こうと
いつもはっきりと目醒めて学んでゆくがよい
○中村元先生訳
916
師(ブッダ)は答えた、
「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本を
すべて制止せよ。
内に存するいかなる妄執をもよく導くために、
常に心して学べ。
○正田大観先生訳
923.(916)
かくのごとく、世尊は〔答えた〕
「虚構の名称(世界認識の道具として虚構された概念)の根元を、
『〔わたしは〕存在する』という〔我執の〕一切を、明慧によって破却するように。
それらが何であれ、内に、諸々の渇愛〔の思い〕があるなら、
それらを取り除くために、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように。(2)
○パーリ語原文
922.(916)
ムーラン パパンチャサンカーヤ イティ バガワー
‘‘Mūlaṃ papañcasaṅkhāya, (iti bhagavā)
根本を 妄想(捏造)と呼ばれるものを と 世尊は(説く)
マンター アスミーティ サッバムパルンデー
Mantā asmīti sabbamuparundhe;
智慧によって 私がいると(いう想いを) すべてを破壊するがよい
ヤー カーチ タンハー アッジャッタン
Yā kāci taṇhā ajjhattaṃ,
それら どんな 渇愛も 内部の
ターサン ウィナヤー サダー サトー スィッケー
Tāsaṃ vinayā sadā sato sikkhe.
それらを 熱心に 常に 気を付けて 学ぶがよい
○一口メモ
昨日の偈に対して、カタヤマさんが「ずっと気になっていたお経です。タイトルが、なぜ「迅速」なのか? が分かりません。先生の解説に期待しています。」というコメントをしてくれました。この問題は私も気になっていることですので昨日の「一口メモ」に書こうと思いましたが、この経の終わりに書くことにしようと思っています。皆さんもその理由を考えて下さい。
さて、今回の偈について学んでいきましょう。また少し余談になりますが、ブッダはいくつかの項目について説法するとき、一番大切な項目から説かれると言われています。そうすると、質問者に対する一番大切な解答がこの偈であるということになります。
三人の先生方の訳の仕方が細かい点で異なるので、それに従って説明するとややしこくなりますので、私のパーリ語原文にそった訳に従って説明します。
一行目は「妄想(捏造)と呼ばれるものの根本を(すべて破壊すれがよい。)」です。これが根本で、一番大切なところです。このことは874偈で「何故ならば、思いによって、ありとあらゆる妄想(捏造)が起こるからである。」と述べられたことが思い出されます。
二行目は「智慧によって、『私がいる』という思いをすべ破壊するがよい。」ですが、妄想(捏造)の最大のものが「私がいる」という思いです。私がいるという思いから、あらゆる悩み苦しみが生まれるのです。
ここで、三人の先生方の訳の違いについて説明します。毎田先生は、「『自分を聖者のように』考える一切の妄想」とし、中村先生は「「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>」とし、正田先生は「「虚構の名称(世界認識の道具として虚構された概念)の根元を、『〔わたしは〕存在する』という〔我執の〕一切を、明慧によって」としています。
このように訳の違いがありますが、一番大きな違いはパーリ語の「Mantā」をどのように訳すかが大きな違いなのです。毎田先生は「聖者」と訳しました。ですから「自分を聖者のように考える一切の妄想」となります。
中村先生は「考える」と訳しました。そのため、「私は考えて、(私は)ある」となります。この点について、御自身の訳書「ブッダのことば」の注で「われ思う。故に、われ有り」というデカルトの言葉を引用して、「文句が似ているとしても、近代西洋と仏教とのあいだには、確然たる相違があった。近代西洋におけるその表現は、自我の確立をめざす第一歩であった。しかし、古代のインド仏教では、分裂・対立した自我は、むしろ制し、滅ぼされるべきものであった。」と書かれています。
正田先生は「明慧によって」とされているのです。私も一応この訳を取りました。どの訳を採用するかは皆さんが御自分で判断して下さい。後日読むときは変わるかもしれませんが。
ブッダの言葉はまだ終わりません。後半の二行も大切です。
毎田先生訳、「内にあるどんな情欲をも取除こうと、いつもはっきりと目醒めて学んでゆくがよい」
中村先生訳、「内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。」
正田先生訳、「それらが何であれ、内に、諸々の渇愛〔の思い〕があるなら、それらを取り除くために、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように。」
この部分は三人の先生方の訳は基本的に同じです。唯、パーリ語のtaṇhāの訳が、「情欲」と「妄執」と「渇愛」が違います。どの訳がピント来るかは人によって異なると思います。また妄想(捏造)で悩み苦しみが生まれると書きましたが、それは妄想(捏造)によって「情欲」=「妄執」=「渇愛」が生まれ、増加するからだといます。妄想(捏造)の根本を断ち切ることは本当に大切なことです。
我ありと 思う妄想 断ち切って 情欲のぞく 学びをすべし<916>
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごことが叶えられますように
私に悟りの光があらわれますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~~お知らせ~~~~~~
◎特別連絡:6月12日(金)から6月16日(火)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。
◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
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2015年06月16日
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難解な偈です。とても困惑しています。何度も読み返しましたが、ワンギーサ先生の次の三つの解説につかまって理解させて頂きます。
①「妄想(捏造)と呼ばれるものの根本を(すべて破壊すれがよい。)」です。これが根本で、一番大切なところです。」
②「妄想(捏造)の最大のものが「私がいる」という思いです。私がいるという思いから、あらゆる悩み苦しみが生まれるのです。」
③「それは妄想(捏造)によって「情欲」=「妄執」=「渇愛」が生まれ、増加するからだといます。妄想(捏造)の根本を断ち切ることは本当に大切なことです。」
先生の解説がなければ、お恥ずかしいのですが、私の頭脳では、この偈の理解は断念せざるをえませんでした。御指導ありがとうございました。
「智慧によって」というのが重要で、そうしないと、単に「我ある」に対する「我はない」。という意味に取りかねないと思うからです。
勿論、正田先生も中村先生もそうした考えはないと思いますが、、。
「「我はいる」という思いは錯覚であって、それを智慧によって破壊する」ということだと思います。
三先生の翻訳もの違いがよくわかりました。有難うございます。「情欲」と「渇愛」は「妄想」から生まれて、「悩み苦しみ」がさらに生まれるということです。
全ての苦しみや悩みの根源である「妄想」を今に気づくことで断ち切ることが一番だと思います。
可能か不可能化は各個人の実践のみでしょう。
自身の生活を顧みると、そのような事に気づくことが多々あります。
そうしますと「迅速」の言葉が使われていますのは、そのように早く効果があるから?なのかな、と手前勝手ですが想像致しました。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。