○少年少女のためのスッタニパータ<914>
・・・
見解も学問も思想も重荷だよ。
それらを皆下ろしてごらん。
楽になるよ。
第4 八つの詩句の章 13.大集積経 20.
○毎田周一先生訳
914.
静かな人は この世のどんなことでも
自分の見解や学問や思想を拠り所として それを見ない
彼の肩の荷はすっかりおろされて 自由に解放されている
そして時に流されることなく 快楽に耽らず 何も願い求めるものがない
○中村元先生訳
914
見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、
賢者は一切の事物に対して敵対することがない。
かれは負担をはなれて解放されている。
かれははからいをなすことなく、快楽に耽ることなく、求めることもない。
○正田大観先生訳
921.(914)
あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、
彼は、一切の諸法(事象)にたいし、敵対という有り方を離れています。
彼は、〔生の〕重荷を降ろした者、牟尼であり、解脱者です。
〔時間の〕妄想ある者ではなく、〔作為の〕止息ある者ではなく、〔未来の〕切望ある者ではありません」〔と〕。ということで――(20)
○パーリ語原文
920.(914)
サ サッバダンメース ウィセーニブートー
Sa sabbadhammesu visenibhūto,
彼は 一切の事柄において 敵対することがない
ヤン キンチ ディッタン ワ スタン ムタン ワー
yaṃ kiñci diṭṭhaṃ va sutaṃ mutaṃ vā;
およそ どんな 見解 或は 学問 思想 或は
サ パンナバーロー ムニ ウィッパムットー
Sa pannabhāro muni vippamutto,
彼は 重荷をおろした人 聖者 解脱した人
ナ カッピヨー ヌーパラトー ナ パッティヨーティ
na kappiyo nūparato na patthiyoti.
ない 計らいのある者 止息しない ない 求めること
○一口メモ
いよいよ、大集積経の最後の偈になりました。今回も聖者の特徴、聖者の生き方が示されています。
中村先生訳でそれを調べてみましょう。①見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、一切の事物に対して敵対することがない。②負担をはなれている。③解放されている。④はからいをなすことがない。⑤快楽に耽ることない。⑥求めることもない。
毎田先生訳では、①この世のどんなことでも、自分の見解や学問や思想を拠り所として、それを見ない。②肩の荷はすっかりおろされている。③自由に解放されている。④時に流されることない。⑤快楽に耽らない。⑥何も願い求めるものがない。
正田先生訳では、①見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、一切の諸法(事象)にたいし、敵対という有り方を離れている。②〔生の〕重荷を降ろした者である。③牟尼であり、解脱者である。④〔時間の〕妄想ある者ではない。⑤〔作為の〕止息ある者ではない。⑥〔未来の〕切望ある者ではない。
①については、中村先生訳、正田先生訳が分かりやすいと思います。何事にも敵対しない。受容するということでしょう。
②は毎田先生訳の「肩の荷はすっかりおろされている。」はいいですね。実際はだれでもこの状態なのだと思いますが、多くの人々は自分の想い(妄想)によって重い(想い)荷物をしょっているのです。
③、④は問題ないでしょう。
⑤については、毎田先生と中村先生は、「快楽に耽ることない。」と訳されましたが、正田先生は「〔作為の〕止息ある者ではない。」とされています。注釈書には「止息なく」とは、善良な凡夫・有学の人たちのように止息をそなえた者ではない。」となっています。すなわち、止める者ではないとなっています。しかし、原文では行頭に否定語がありますから、止める者ではなくないとなり、止める者であると取れます。そうするとここは、止める者は、止めない者とも取れます。私は止める者と取りたいのですが、対象が明記されていませんので、今のところこれ以上は分かりません。
「小集積経」の繰り返しの部分もありましたが、何事にもとらわれない聖者の生き方が示されていました。明日からは「迅速経」が始まります。
何事にも 対立せずに 荷を下ろし 計らうことなく 求めもしない<914>
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~~お知らせ~~~~~~
◎特別連絡:6月12日(金)から6月16日(火)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。
◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
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2015年06月14日
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「止める者」ということは、その対象と対立してるイメージがあります。
何かを「止める、止めない」というのではなく、「自然消滅」のようなイメージを持ちましたが、ハッキリしたことは分かりません。
学校では学問を職場では「仕事の仕方・考え方」を学びます。世間には多数の「仕事に関する」「仕事に取り組む方法」等の書が出版されています。
私はその本を読み、こういう風に考えて行動すればいいのだなと参考にしています。実際、実行していることもあります。
聖者はそのようなものをも捨てるということでしょうか。執着を捨てることにより、重荷がとれるのでしょう。
ありがとうございました。
「多くの人々は自分の想い(妄想)によって重い(想い)荷物をしょっているのです」を拝見しハッとしました。まさにその通りと思います。想いと重いが同じよみなのも興味深いです。
今・ここをありのままに生きるのと、「見解・学問・思想」等で生きるのとでは、生き易さが全く違うように思います。
捕らわれているものに気がつき・捨てると、さっと軽くなりそうですね。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
三先生方の翻訳もさることながら、本日はワンギーサ先生の「実際はだれでもこの状態なのだと思いますが、多くの人々は自分の想い(妄想)によって重い(想い)荷物をしょっているのです。」とのお言葉に救われました。気持ちがすぅっと楽になりました。その結果、「よし、頑張ろう!」という勇気が湧いてきました。ありがとうございました。明日からの新しい経典も、またよろしくお願い致します。
今日仲間と議論になったのですが、自分のこだわりや立場への執着を乗り越えるのに四苦八苦し、何とか相手を責めず生産的な話し合いにはできたのですが、家に帰ってからその時のことが思い出され、悶々としてしまいました。この重さがなくなったらいいなと思いました。